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タクシンの素顔に迫る

yahoo news の newsweek 日本語版でこの記事を発見。
今原文(英語)を探しています。
日本のマスコミはタクシンが失脚したあと除々に態度を変えタクシンと距離をおくようになりました。
アメリカのは違う。
Newsweekにはこんな記事も掲載されているのです。
ものごとの本質にせまる米国人の熱い気迫を感じました。
是非原文(英文)で読んでみたい。
以下は翻訳文です。


タイ動乱「陰の主役」の真実

ニューズウィーク日本版5月19日(水) 21時18分配信 / 海外 - 海外総合

タクシン元首相は民主主義を実現したが国は分裂させた、というのは正しくない。分裂させたからこそ民主主義的だったのだ──

ジョエル・シェクトマン(ジャーナリスト)

 今月13日に始まったタイ治安部隊とタクシン・シナワット元首相派勢力との衝突は、40人近い死者を出す事態に発展している。

 いわゆる「赤シャツ隊」のタクシン派は、06年の軍事クーデターでタクシンが失脚・亡命してから、タクシン派政治家の公民権が停止されていることについて、首都バンコクの市街地を占拠して抗議を続けている。

 バンコクからのニュース映像は、戦闘地帯の急拡大を伝えている。居並ぶ治安部隊が群集に向けて発砲し、非武装の市民の死体が道に転がり、車は炎上し、バリケードが築かれている。

 抗議活動の中止を条件に政府側は話し合いに応じるとしていたが、治安部隊は19日にバンコク中心部でデモ隊のバリケードを突破。ロイター通信によれば、タクシンは治安部隊による強制排除が国中でゲリラ戦を引き起こす可能性がある、と述べた。

 泥沼化にもかかわらず、タクシンを追放したエリート層が後悔している様子はない。彼らにとって、そしてタイ国外の人々にとって、タクシンはポピュリストのデマゴーグ(大衆迎合主義の扇動政治家)だった。タクシンは無教養な農村貧困層の大衆を操って権力を握った。第2のウゴ・チャベスになっていたかもしれない、というのが彼らの見解だ。

 だがタクシンは、砕け散ったタイ民主主義が最も素晴らしかったころを象徴する人物だ。確かに不手際は数え切れないほどあった。彼は素直な政治家などでなく、汚職に手を染めたこともほぼ間違いないが、タクシンのタイ愛国党は01年に下院で初めて500議席の過半数に迫る248議席数を獲得した政党だ。タクシンは農村部の政治に疎い大衆を動員することで、70%という記録的な投票率も実現した。

 元警察官で実業家のタクシンは政界に進出するにあたり、バンコクの富裕層から国民の80%を占める農村貧困層へ権力の中心を移す、と約束した。そしてタクシンはその通り約束を実行した。

■利益誘導と民主主義は矛盾しない

 過去30年間、タイは軍事政権と独裁者の統治との間で揺れ動いて来た。97年のアジア通貨危機によってチュアン・リークパイ元首相が権力を握り政治改革を推し進めたが、彼の金融引き締め策は景気後退に苦しむ農村貧困層を無視するものだった。

 彼らの要求に耳を傾けることを約束して、01年に登場したのがタクシンだった。タクシンは農村部の開発に数十億ドルをつぎ込んだ。小口融資や起業支援、あるいは農作物の生産拡大資金として、タイの約8万の村にそれぞれ2万5000ドルを支給した総額23億ドルの農村ファンドもその一環だ。

 警察官時代にアメリカ留学の経験もあるタクシンは、農村部の小規模ビジネスの起業を支援するという自由主義的な手法と、農家への債務支払い猶予や補助金支給といったポピュリスト的政策をない交ぜにして実行した。こうした政策によって、国民1人当たりGDP(国内総生産)は01年から06年の間に70%も増えた。農村部の住民収入の伸びはそれ以上だった。

 01年にタクシンは貧困層が75セントで医療を受けられる医療保険制度をつくった。野党はタクシンが票をカネで買っていると非難した。だが貧困ライン(生活に必要な最低限の物を購入することができる最低限の収入水準)以下で暮らす国民は、00年に1270万人いたが、4年後には710万人まで減少した。

 タクシンの大義はほかの政治家と同様だ。すなわち権力を握り、権力を維持すること。それでも彼は得票操作ではなく、正当な選挙と政策によってそれを成し遂げた。利益と統治をうまく結びつけることで、指導者は権力の座にとどまる──機能する民主主義とはそういうものだ。

 タイ民主主義においてタクシンが重要なのは、貧困層に奉仕したことばかりが理由ではない。彼には政治家としての能力があった。76年に軍政が終了してから、4年の任期を最後まで務め上げた首相はタクシンが初めてだった。それ以外はみな、クーデターで転覆されるか辞任させられるか、連立を組むパートナーに見捨てられるかして新たに選挙を迫られた。

 王室の陰謀と軍隊の派閥が政治に影響力を持つタイにおいて、エリート層はタクシンのビジネスライクな手法を好まなかった。彼は中央政府のチェックなしに地方の決定権を握ることができる「CEO知事」を新設したが、形を変えた縁故主義にすぎないとレッテルを張られた。

■バラマキでつくり出したチェック機能

 それでも数値目標を設定し、地方当局者に決定権を与えることで、タクシンはタイを経済危機から救うことに成功した。IMF(国際通貨基金)からの融資も予定より2年前倒しで返済した。

 もちろんタクシンは聖人ではない。反タクシン派が主張する彼の姿の大半は真実だろう。03年にタクシンが行った麻薬撲滅作戦(3カ月以内に麻薬取引を根こそぎにすると約束した)は、数千人の死者を出した。軍事攻撃によって南部のイスラム教徒の暴力は激化した。

 農村融資は単なる票集めの手段に過ぎなかったと批判派は口をそろえる。タクシン自身も融資が返済されることはないと分かっていたはずだと(実際、多くの国々で農業助成は行われているのだが)。

 だがタクシンにどんな欠陥があろうと、01年から06年にかけて彼が大衆の政治参加を実現し、タイ民主主義の最も輝ける瞬間を実現したのは間違いない。タクシンがエリート層を疎外しようと、一般大衆は彼が自分たちの味方だと考えていた。

 どんな国にも利害の対立する階級や派閥は存在する。明らかに現在の衝突は行き過ぎだ。だが農村の有権者を政治に参加させることで、タクシンは都市のエリート層の権力に対するチェック機能をつくり出した。

 タクシン政権は民主主義を実現したが国は分裂させた、というのは正しくない。分裂させたからこそ、民主主義的だったのだ。
by kiyoshimat | 2010-05-21 10:16 | 英字新聞

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